“烈火頂上作戦18”@
小岩オルフェウス
5月19日(日) OPEN 16:30/SART 17:00
■前売 1500(+1D)
■出演 児来也(+志田歩 with kubotti)、スピーディーマリー、王様と下僕、黒生。暴走半島
ニュー・アルバム『輪廻転生』をリリースする児来也のCD発売記念ライヴ“烈火頂上作戦18”に、志田歩 with kubottiでゲスト参加します。
ちなみにこのアルバムには、コーラスでゲスト参加している他、ライナーノーツも僕が担当。
母親の喪失を兄弟の共通体験として受け止めた結果が、このセッションにつながった気がしています。
以下、ライナーノーツ本文。
児来也の結成は1987年。
すでに四半世紀の歴史を持つパンク・バンドである。オリジナル・メンバーはフロントのジライヤのみで、何回ものメンバー・チェンジを繰り返してきた。改めてバンド活動を振り返ってみると、ジライヤは自分の人生の半分以上の年月をジライヤとして費やしてきたことになる。なんともしぶといというか、業の深い男だ。
実はジライヤは僕の実弟であるが、少なくとも彼のしぶとさは、身内でない方でもご理解いただけるものと思う。
児来也はザ・スターリンやアナーキーなどをはじめとする多くのパンク・バンドの影響を受け、日本語によるパンクを受け継ぎ、独自のスタンスで進化させてきた。例えばシンプルな言葉の繰り返しにより、時にはユーモアも漂う異化作用を醸し出すセンスは、ザ・スターリンの遠藤ミチロウからの影響と思われるが、そこにひんぱんに熟語を投入して抜けの良い発声で聴き取りやすく歌う手法は、児来也ならではの個性として確立されている。パンクに成熟という言葉が似合うかどうかはともかくとして、このスタイルは独自の言語感覚をパンク・バンドのフロントとして鍛え上げるキャリアの蓄積があってこその賜物であろう。
さて本題はここからだ。
そもそも70年代後半にパンクが台頭してきた時、その表現の核には、前の世代に反抗する“若気の至り”的な要素を、ぬき難く内包していた。洗練された受けつけやすさを意識的に拒み、アグレッシヴな質感を手放さない“大人げの無さ”が、パンクの本質である。実際に彼らが日本語でカヴァーしているAbrasive Wheelsの「Burn'em Down」にしても、原曲は学校生活への反逆を歌ったものだ。
つまりパンクを成熟させるということは、“大人げの無さ”を抱え込みつつ年輪を重ねていくというパラドキシカルな営みなのだ。ではこうした流れの中でキャリアを重ねてきた児来也は、どのようにそのパラドックスと対峙しているのか。それこそが本作の特筆すべきポイントだと思う。
それを示唆しているのが例えば「絶望の条件」「こんな世界に生まれて来たんだから」といった曲でSE的に使用されている子供の声だ。この声の主はジライヤの実子。つまりこれは親子の共演でもあり、後者の歌詞は、親から子へ贈る言葉として受け取れる。
さらに本作を締め括る「去り逝く人」は、亡くした肉親への想いを綴った楽曲。この歌詞には、反抗的な言葉は出てこず、自分が生きている現実を受け入れていく覚悟を力強く歌っている。
結果的に本作には、本人と親、本人とその子という三世代の関係性が反映されているのだ。(より正確に言うなら、自分もコーラスとこのテキストで関与しているので、実は兄弟という関係性も同時に含まれている)
『輪廻転生』というタイトルは、こうした作品の持つ質感を、ジライヤの得意技である四文字熟語で射抜くべく選び取られたものだ。
子が生まれ、親を亡くすという人間としての普遍的な営みを成熟の機会とするのは、決して珍しいことではないかも知れない。
だが児来也のように、それをきちんと作品として体現しているパンク・バンドは、決して多くはない。これが児来也ならではの業の深さなのだ。
この原稿を書きながらふと思い出すのは、僕とジライヤが、共に実家で暮らしていた10代の頃のことだ。ジライヤがロックを聴くきっかけを作ったのは、まさに僕自身だった。その結果、このテキストを依頼されるというのは、実に“因果応報”である。
2013年1月31日
ジライヤこと志田 到の47回目の誕生日に
志田 歩
ちなみに6月は29日に行なわれる
加藤志乃ぶ&orange cloud 1st.single「かるた」発売記念ライブには志田歩でゲスト参加します。
新橋ZZ
12時30分開場
13時開演(予定)
前売/¥2,000 当日/¥2,500